受け継いだ練り物の技に、価値ある進化を
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大阪府
有限会社藤熊食品は大正6年に創業。こだわりの手法で練り物を中心に製造を行い、100年以上多くの人に愛され、笑顔を届けてきた大阪の老舗だ。
初代創業者である藤田熊雄氏の思いを職人らが大切に守り、「石臼製法」で厳選された素材を丹念にすり上げて、すり身を揚げる油にもこだわり、すり身との相性や香り、艶など考え抜いた逸品を継承する。同社の4代目、藤田雅史社長にお話を伺う。
PROTAGONIST
藤田雅史代表取締役
藤熊食品の歴史
阿波の国、徳島県で生まれた創業者の藤田熊雄氏は、新鮮な魚で造った蒲鉾(かまぼこ)を、多くの人に食べてもらいたいという思いで、大正初期に単身で大阪へ向かう。見習い時代を終えた後、旧天満市場に店を構えて揚げたての練り天ぷらや蒲鉾を製造販売を始めた。
間もなく、新鮮な素材と味が評判を呼び、行列ができるほどの人気店となる。昭和6年に同市場が福島区の大阪市中央卸売市場に統合したため、初代は新店舗を出店したものの、その後第二次世界大戦が始まり一時的に休業に。
戦争の最中、奥方が初代の理念と技術を守り続け、戦争から帰還した息子によって2代目が誕生し店舗運営を再開する。そして3代目に継承され、昭和58年に茨木市の中央卸売場に新たに出店。その後、2007年に藤田雅史氏は4代目を継承し、現社長の誕生となった。
強みとこだわり
同社はコロナをきっかけに環境が大きく変わる。コロナが長引く中、取引先の会社が廃業になり、ノウハウの一部を引き継ぐことになった。そして自社のオリジナルを加え、新商品の開発を始める。
大手の食品製造会社では、効率よく大量生産をすることを目的にしているため、工場に職人は常駐しなくてもよいのだ。また、膨張剤を使用して元々の素材を3倍ほどに膨らませ、弾力剤で噛みごたえのある食感を作り、防腐剤を入れて長持ちさせる。この流れは大手の工場においては通常である。
同社の生産方法は、代々受け継いだ職人の手法を元に、魚のアク抜きなどは漁港で行ってもらい、一部機械を取り入れて作業の効率化が可能な部分は踏み切るが、重要なのは「練り」であると主張する。機械に任せず、石臼を使って職人の手で練りあげることで、きめ細かい上質な身に仕上がる。また、魚を冷水で洗いアクを抜き冷凍保存した魚肉原料をフードカッターで刻む際に塩を入れることがポイントだと説明する。
「塩の成分でたんぱく質同士が引き合うため、弾力性のあるプリプリした食感に変わります。ひと手間加えるだけなので簡単なことです。多くは生産できませんが、できるだけ添加物は使用せず上質なものを、毎日必要な分だけ作っています」
4代目は先代らが行ってきた薄利多売の事業体系を壊すため、販売価格を適正価格に引き上げたのだ。
継承と確執
4代目雅史氏は26歳で家業を継ぐ。大学卒業後は自動車部品メーカーに就職し、社会人のマナーや営業の基礎、商談の仕方を学ぶ。元々は藤熊家の次男であったが、古くから父と親しくしている易占いの先生により、幼少時から次男が跡を継ぐことが決まっていた。
3代目が行っていた卸売業について、4代目は販売価格に違和感を持ち、薄利多売だと考えるようになった。そこで「富裕層向けの高級食品」として、おでん、惣菜、ペットフードなど練り物を中心とした製造を行い、大手企業や百貨店で販売を始める。
様子を見ていた父から「新商品の販売価格は、ちょっと高いのではないか。これまで親しんでくれたお客さんも、これまで通りお店に来てもらえるよう、安価な商品も残しておいてほしい」と話があった。父親は、薄利多売の商売に長年携わっていたため、適正価格で販売する4代目の考えに反対していた。
しかし、4代目は「手間隙かけている分、適正価格を認めてくれる取引先を中心に関係を築き、適正な利益を確保したい」と強く主張した。
コロナを機に、両親は完全に引退し、4代目(当時50歳)が総責任者に就任した。工場の移転と共にスタッフの総入れ替えを行い、4代目を陰で支え価値観のとても近い1人の職人をアドバイザーとして迎えてスタートを切った。
「卸売業が中心ですと、商品を大量に取り引きする代わりに値下げを要求されたり、協賛金を求められたりします。これでは一体何をしているかわからない。足を使って、理解を得られる新しい取引先を探していたところ、ある紹介者が現れました」
生き残りをかけた闘い
新商品の開発として、練り物以外に、惣菜、おでん、魚の焼き物などに力を入れていたところ、高島屋さんからポップアップステーションという催事に出展しないかと勧められ、味百選コーナーに並ぶ加工商品の仲間入りをした。同社の練り物商品はたちまち話題になり、高島屋のバイヤーの目に止まった。とんとん拍子でたくさんの百貨店から出店依頼があり、同社は社内に催事部隊を立ち上げた。
「自分が取り組んできたことが認められた」
ところが、4代目が喜んでいたのもつかの間。コロナ禍でデパートが閉まり、開けても客が訪れず、催事部隊も解散せざるを得ない状況になる。工場も店も休業だ。
そんな折でも商品開発を継続し、練り物に限らず「おいしいもの」「みんなが笑顔になる商品」を4代目は目指す。コロナ禍が回復した後、百貨店やデパートの担当者と新たに信頼関係を構築し、新しい人材を採用して催事部隊をもう一度作り、出店にチャレンジした。
会社の危機に直面する事態でも柔軟な姿勢で対応し、新しいアイディアを生み出す努力と忍耐強くチャレンジする精神を維持する、4代目の気高い人柄が垣間見える。
今後の挑戦
近年、魚の枯渇が続いている。その理由は、人々の乱獲と気候変動により、魚が北へ移動したり、中国の魚食の増加の為だ。元々、東シナ海で獲れて日本へ入っていた魚も現在は中国に流れており、日本は買い負けしているとも言われる。日本は人口が縮小傾向にあり、一方、東南アジアは増加傾向にあることから、4代目は将来的にはベトナム工場の新設を目指す。現地の練り物は噛み応えのないツミレみたいなものがほとんど。藤熊の技術を使いクオリティーの良いものを作りたい、今後は東南アジアを中心に工場を増やしたいと述べる。
また、百貨店のマーチャンダイジング(MD)からのアドバイスも加え、商品開発においては、消費者に求められる商品を時代の変化に合わせて製造し、仕入れから価格設定、販売方法、陳列方法、広告と宣伝まで、計画を立てて実行していきたいと話す。
INFORMATION
有限会社藤熊食品
阿波の国、現在の徳島県で生まれた創業者 藤田熊雄氏は、新鮮な魚で造った蒲鉾(かまぼこ)を、より多くの人に食べてもらいたいという思いで、大正初期に単身大阪へ出てきました。
見習時代を終えた彼は、その当時最も活気があった旧天満市場に店を構え、揚げたての練り天ぷらや蒲鉾を製造販売しました。
新鮮な素材と味はたちまち評判を呼び、せまい売り場は連日大勢の買い物客で賑わったといいます。昭和6年に同市場が福島区の大阪市中央卸売市場に統合した後も出店。
新鮮な素材へのこだわりは、人並みはずれたものがあったそうです。
そんな彼の思いは今なお受け継がれ、厳選された素材を丹念にすり上げる《石臼製法》を使った「手造り」にこだわり続けています。
- 創立
- 1917
- 従業員数
- -
- ホームページ
- https://www.fujikuma.com/
- Writer:
- GOOD JOB STORY 編集部